ほー原人のブログ

原人からヒトへと進化するための考察。法律関係がメインとなると思います。

大日本帝国への復古を語る危うさ

 1か月ほど前のAERA西部邁中島岳志の対談記事(*1)が掲載された。
 内容は保守と右翼の違いについてである。
 一時的とは言え駒場時代に学生運動に関わり、その後かつての仲間がテロリスト化したトラウマから、極度の大衆民主主義批判をライフワークとする西部が、真正保守なのかは多少疑問もある。
 また上の記事中でも言及されてはいるのだが、ネット言論が普及する過程で従来のアカデミックな場あるいは論壇でマイノリティーに過ぎなかった”保守”論調を無自省にまき散らしたために、昨今の煽動された”ふつうの日本人”=ネトウヨを大量に生み出したのはあなた自身ではないかというツッコミもあるかもしれない。

 ただ保守の定義という一点に着目するとなかなか興味深い示唆を与えてくれている。僕なりに要約するとこうだ。

保守の要件
1 懐疑主義、特に人間の理性に対する懐疑
2 国家有機体説
3 漸進主義

 人間ごときが頭で考えることは所詮不完全である。一方、社会あるいは国家というものも極めて複雑にあらゆるものが相互に関わり合いを持ちながら、かろうじてバランスを保っている。あたかも生き物のように繊細なものだ。したがって、現在の社会のあり方───従来からの伝統や習慣───には、一定の合理性が潜んでいる。
 そこで、仮に現在の社会に問題があるとしても、僕ちゃんが考えた最強の社会制度を大上段に振りかざすべきではない。また伝統や慣習に盲従するべきでもない。伝統や慣習から歴史の叡智と言うべき考え方を抽出する努力をし、一方現実の問題から目を背けることなく、あらゆるものに常に疑いを持ち、慎重に議論し、緩やかに改革していくのが正しいスタンスなのだ、と。

 仮にこの保守の定義が正しいとするならば、大日本帝国への復古を主張することは保守ではない。まだ人類が経験したことがない社会実験───進歩派が主張する理性による完全な社会───に対して懐疑する。いわんや人類が既に経験した社会実証をや。歴史上すでに失敗することが実証されたものを無批判に美化し、あるいは失敗を糊塗して歴史修正し、そこへの回帰を求める主張に一片の懐疑など含まれてはいない。
 少なくとも何が原因で失敗したのかを分析して率直に受け入れるプロセスなくして行えば、物理法則に近い確率で同じ間違いを犯すことになるだろう(*2)。

 そして西部邁が何者であるかはともかく、この保守の定義は進歩思想との違いを明らかにしており、自分自身が物事を考える上での指針を示している。それなりに説得的なものだ。
 保守とは、実践する思考なのであり、道を間違えないための指針である。その意味で進歩思想と矛盾するものではない。ただ進歩思想が積極的に正解を模索するのに対して、保守は消極的に間違わないことを探求すると言えるかもしれない。懐疑と漸進主義という保守からの問題提起を取り入れる進歩思想ならば、保守以上に保守に接近することさえあり得る。
 保守というのはファッションではない。保守を自称することに意味はない。保守と革新の二分論で世の中の諸事を仕分けし、保守的なるイメージのものだけを選んで満足するなら、もはや単なる宗教だろう。

 急進的に大日本帝国への復古を目指す自称”健全な保守”の某政党と”日本をトリモロス”某御仁。西部と中島も彼らには直接言及していない。しかし、歴史を学ばず懐疑しないかかる勢力が似非保守であることは明らかである。もちろん進歩的でもない。煽動される側もまたしかり。

以上

*1 Web版

dot.asahi.com
*2 デイビッド・ヒュームに倣うなら、その物理法則にすら懐疑を向けるべきではないか、という揚げ足取りはもちろん不要である。物理の問題で言うなら「ただし空気抵抗は無視するものとする」。
 この難問を考察するには、僕はまだ進化が足りないのだ。